暇な海老フライ

湿気ってます

近況

久しぶりのブログ

昔の記事を少し読んでみたんだけど1年2年で考え方が結構違って面白いね

特になんにもない日だけどなんにもない日だからこそ書いてみようと思った


つくづくこれが紙の日記だったら自己嫌悪が強い時に切り刻んで捨ててしまってただろうなと思う
ネット上に書いていてよかった



さてさて近況について
大学院にひとつ受かってひとつ落ちた。まだ志望校は決めてないけど3月もどこかしら受ける予定

高校生の頃から勉強すること自体がこわくて不安でどうしようもなくて今までほとんど勉強できてなかったんだけどこの間、1ヶ月位だけだけど10年振りにしっかり勉強することができた


勉強への不安がなくなったとかではなくなぜできたかというと自分が生きている人生についてまともに向き合い始めたからだと思う

今まで自分の人生の選択肢の1つに常に自殺入れていた
「どうせ自殺すればいい」「死ねば終わる」と考えることで人生の様々な面倒なことから逃げてきていた。薄々わかってたけど認めたくなかった


自殺を選択肢にいれず自分の人生に向き合おうとした主たる理由としては以下の3つでは無いかと考えている



第1においつめられた状況でも自殺しなかったこと

第1志望の大学院の願書の提出日と受験日を1ヶ月間違えててそのことに提出日前日に気づいた(加えてそのとき旅行にでてたし願書は請求しなければもらえないみたいなことが書いてあったので願書自体を提出日に入手できるのかも分からなかった)+おさえの大学院の試験日が2週間半後だということを初めて気づいた(なんとなくあと1ヶ月半は猶予あると思ってた。この時点で勉強は一切してない)という自分の落ち度によるわりと絶望的な状況に陥ったとき、8階の部屋にいたにも関わらず飛び降りることなできなかったので自分に自殺する勇気なんぞ無いということをやっと認めることが出来た



第2に人生観の修正

自分の人生観の根底には楽しくない苦しいことばかりの人生に生きる意味はないというものがありそれだから世の中の人々の多くが自殺せずに生きていることが不思議でたまらなかった

そのようなことを今の主治医や精神科に入院してた頃の担当医や学部の頃の教授に話したら「人生が楽しくなったと思えるのもっと後になってから」というようなことをいわれて、ただの生存者バイアスではないかと思い頭では理解出来ても心で理解が出来なかった

しかし「かぐや様は告らせたい」という漫画でかぐやが「人生はただ苦しさを耐え続けるものだと思っていた」という回想シーンを見て急に理解が始まった。生きるために生きているだけの人生もだめではないのだと

今では人生は苦しさを耐え続けるだけのものではなくなった、というかぐやの前向きな変化について記したシーンであるのでなぜここで急に腑に落ちたのかは不思議



第3に弟の存在

私が自殺してそのことで家族が悲しむのはまあしょうがない。そうではなくて現実的に、身内に精神を病んで自殺した人がいることってどうみられるのだろう。もし弟が結婚しようとしたとき、双子の姉が自殺しているという事実を弟の婚約者とその家族はどう受け止めるだろう?

良くない心情を持たれることは想像に難しくない
仮に破談になったとしてもそれは責められることではないと私は思う
婚約者の身内に自殺者がいたら、遺伝的な精神疾患や育ってきた家庭環境など当たり前に心配になるだろう

自殺するよりかは、精神的経済的に親に負担をかけ続けて自己嫌悪に苛まされようと生きている方が家族にとって良いと判断した


とりあえず今日はここまで。予想以上に長くなった。明日は久しぶりにボードゲームについてのブログを書きたい