暇な海老フライ

湿気ってます

時間薬

まともなタイトル

 

 

 

 

 

前も書いたと思うが私は私の苦しかった気持ちを忘れることが怖い


私が世界でいちばん苦しかったときのことを忘れたくない。

 

きっと昔より今の方が苦しさを「正しく」認識している。

 

 

状況を客観的に見られるから。状況的なしようがなさ、他者の苦しみとそれからの関係や知ったことも加味して考えられるから。

 


親も苦しかった、あの子も苦しかった

 

 

 

そんなのいらない。正しくなんかわからなくていい。
私が「正しく」分かるべきなのは仕事における他者の心だけでいい。

 

 


正しく分かりたくなんかない。許したくなんかない。あの頃は、なんて懐古したくない。
私の苦しさを過小に評価したくない。


そんなの昔の私を否定するようだ、あの頃の私は苦しさがアイデンティティだった。

 

自分の感情だけは主観的でいいのに。


臨床家としての成長は私自身の客観視を強める。

 

これをきっと世間では「大人になった」というのだろう。

 

 

 

 

 

 

なんてつまらないんだろう。
主観を忘れてしまったら何もかも意味が無いのに。

 

苦しかった私を否定したら、苦しい誰かの気持ちを「いつかは違う見方ができる」と「大人」なアドバイスをしそうでこわい。

 


そう多分それこそが怖い。

自分が苦しかったからこそ他者の苦しみを否定したくないのに。

 

 

 

私は私が時間の経過とともに苦しかったことを忘れて幸せになって、「あの頃は」なんていうようになるのがこわい。

 

幸せを怖がらず安寧だと思ってるのがこわい。まだこわい。

 

いつかこの怖い気持ちも不安も忘れてしまうのだろうか。